こっ,これは!?
この方は本気でこのように考えているのだろうか?別に自然界において“物”の所有権をどのように理解しようと個人の“自由”であるが,それを他人にまで押し付けるのはまさに“思想・良心の自由”という法治国家日本の憲法で保障されている人権を侵害するに等しい行為ではないだろうか?
本は、購入した人の所有物ではありません。そもそも、太陽とか土とか水でできた紙を使ってできた本を、数百円払ったくらいで「所有」しているという考え方がおこがましい。
当たり前ですが、本でも何でも、一個人の完全な所有物となるものなんて、この世にはありません。「物」は、言うならばこの世界そのものの「所有物」 であり、人間にとってはむしろ「借り物」という方が近いです。今認められているいわゆる「所有権」とは、その「借り物」の処遇について、他の者よりも比較的多く決められる権利――くらいの意味しかないのです。
別に当人の個人的考え,信条として物が自然界からの借り物であると考えるのは自由ですが,しかし法治国家日本において売買契約によって取得した“本”の所有権は契約によって決まると言えるのではないでしょうか?
また,あるいは所有権が自然界からの一時的な借り物にすぎないという考えに基づくならば,そもそも借り物で商売をしている人間は一体全体何様だというのでしょうか?
上記でも述べましたが、購入した本の使い道は購入者の自由ではありません。まず、読み方からして「自由」ではありません。例えば「あ」という文字があったとしたら、これを「い」や「う」と読んではいけないのです。
これは冗談ではありません。もし「楽しみ方」が「自由」というなら、「あなたを愛している」と書いてあったとしても、「おまえを殺す」と読むことだってできるのです。そうなると、作中の人物に「あなたを愛している」と言わせただけなのに、「あの作家に殺すと言われた」として、その作家を訴える読者だって、そのうち現れるのではないでしょうか(あるいはもうすでに現れているかもしれません)。
「あ」という(単体ではおよそ意味を持たない)文字を「い」「う」と読むことには何ら意味がないように思いますが,普通の人はそのような変なことはしないでしょう。
そして,「あなたを愛している」を「お前を殺す」と読む(理解する)ことができないというたとえをされていますが,はたしてそうでしょうか?
その文言が作中でどのようにどのような状況で発せられたものなのかによるとは思いますが,場合によってはそのような理解が可能な状況もあるでしょう。
たとえば,推理小説のようなものを考えてみましょう。同じ場面,同じ状況であっても,読者によって推理は千差万別で理解の仕方も変わるのではないでしょうか?逆にそうでなくては,画一的な判断しかできないような内容で推理ものとして,読者に楽しませる作品が成立するでしょうか?
あるいは,どのような小説であったとしても言葉で風景を説明する場合に,その言葉から想像する風景は人によって,描写する風景によって程度の差はあれど画一的なものではないでしょう。
これらを見ても明白なように,「楽しみ方」は読者の自由であり,それはいわば思想の自由に類するような基本的人権に属する「自由」であると思えます。
また,どのように考えるかの自由とは別に,それをもって実際に作者等を訴えることはまったくもって別次元の問題ではないでしょうか?仮にそのような訴訟を起こされたとしても,そう考える自由とそれをもって作者に違法性が存在することは直接関係がなく,およそ一般的にみてそのように理解できない表現に対してそのような訴えが認められることはないでしょう。
そもそも訴えることも自由かもしれませんが,そのような全く論理性を持たない訴えが裁判所で認められるとも思えません。
佐藤さんのようなことを言う人が本を買う必要はありません。本はむしろ「買った後の使い方まで指示してほしい」という人が買うべきであり、また読むべきものです。
これも,極論すれば他人の人権を侵害しうる考え方,と言えるのではないでしょうか?百歩譲って本が借り物だとしても,借りた“物”に害を与えなければ常識の範囲でどのように利用しようとも借りた人の自由でしょう。それを作者,製作者の意図したとおりに利用しなければならない,というのならばそのような契約条件を付して売買契約をするべきものです。
ここには矛盾があります。佐藤さんが言うように、作家が「自分の著作を読もうとしている人達」を「閉め出」してまで自炊を止めようとしているのなら、それはむしろ、「自らが犠牲になってでもそれを止めようとしている」ということで、「自分の権利」は考えの外にあるのではないでしょうか?
ここには,まさに矛盾があります。自分の権利が考えの外にあるのではなく,「他人の権利」がまさに蚊帳の外にあるとしか言えません。法治国家日本において,所有権が一時的な権利(借り物)であるとするならば,そのように法を作る必要があります。
自分の権利を主張する前に,法治国家という人間社会にあるのですから権利を規定している共通のルール(法)をよく考え,理解すべきです。
漫画家を「客商売」にしている人もいるでしょうが、そうでない人もいるでしょう。実際、もう一生食べていけるだけのお金を持っているにもかかわらず、マンガを書き続けている人もいます。そういう人は、読者からお金をもらうためにマンガを描いているわけではありません。そういう人は、もっと別の理由でマンガを描いています。
それは、佐藤さんだって十分にご存じのはずです。手塚治虫さんは、読者からお金をいただいて生活していたのでしょうか? もちろん、それで生活している部分もあったでしょうが、『ブラック・ジャック創作秘話』というマンガを読むとよく分かるのですが、彼は命を削るようにして『ブラック・ジャック』を描いていました。
漫画家を客“商売”と考えるか否かは別問題としても,本の出版として考えれば商売としてしか在り得ない,とは考えないのでしょうか?
如何に原作者たる“漫画家”が無償で作品を作ったとしても,それを本として出版する以上は何らかの経費が掛かります。そして,一般的に本として出版される場合には,出版社でそれらが必要とされることでしょう。
そうなれば出版社は遊びや趣味でやっているわけではなく“商売”として行っているのですから,通常はその負担を誰が負うかは別とすれば何らかの利益を得ていることになります。(無償で配布されているようなタウン誌でも,広告等で最低限必要経費は捻出されていることでしょう。)
作家がどのような理由で作品を作るかは,それこそ作家の“自由”ですが,根底には自らの作品を読者等ユーザーに楽しんでもらいたいということがあると思います。しかし,そのために本という形で出版する以上は,なんらかのお金(利益でなくとも経費)が必要です。
本はなくなって不利益を被るのは、読者も同じです。こういう言い方は気持ちいいかもしれませんが、「人類が滅亡すればこの世から不幸せがなくなる」と言うのと同じで、ものごとの本質的な解決にはなっていません。
まったくもって,自らその考えが間違っていることを証明しているとしか言えないでしょう。
おそらく佐藤秀峰氏は,「本を販売」しないことを字面通りに「本」を販売しないことと言っているのだと思われますが,岩崎夏海氏は「作品を世に出さない」ことと理解されているように見受けられます。
別に作品を世に出す方法は,なにも本として出版することだけではないでしょう。後世に残すという意味では,本として形にすることが今でも一番の方策かも知れませんが,世の中に出すだけであれば佐藤秀峰氏が自ら・・・
ちなみにこちらの僕の著書は、自炊するまでもなくすべて無料でお読みいただけます。
と提示されているように,インターネットで誰でもが読めるようにすることで世に出すことができます。
全てが無料なわけではなく,したがって“販売”していないわけではないのですが,本という“形”で販売されているわけではありません。これならスキャンするまでもなく,自炊したような自由さはないかもしれませんが裁断されてしまうことはないでしょう。
岩崎夏海氏は,本という“形”“物”に捉われ過ぎているのではないか?と思えます。
現状で問題となっている自炊“代行”から“自炊”そのものの是非に議論が移ってしまっているため本という“形”に捉われてしまうのでしょうが,そもそも“自炊代行”と“自炊”は全くの別問題でしょう。
また,本当に本(などの物)が個人の所有物でなく裁断等の行為が問題であるというならば,それは著作権法の範疇で争われることではないでしょう。そのような点で問題視するならば適切な法を提示して指摘すべきですし,もし社会通念上問題だと言うならばその行為によって第三者にどのような法的損害を与えうるのか?という点も提示してしかるべきなのではないでしょうか。
P.S.すべてにおいて法で語るのは現実社会においてどうなのか?またそれを語るほど法について知っているのか?と思いつつも,現実問題として人間が社会を構成して共通生活を行う上での“ルール”なのだから,他人に対して何かをする場合にはそれを考えた行動は必要だろうと思う。
岩崎氏も個人的な考えをブログにまとめたに過ぎないのだろうけど,ブログとして社会に公表する以上は“ルール”に対してどうか?といった視点は必要なのではないか,と思う。
特に日本における最高法規たる憲法で保障されている基本的人権,自由に対する考え方に対して,あまりにも異なる意見であったので一言書きたくなってしまった・・・。